藤沢障害福祉法人協議会創設20 周年を迎えて ~藤沢の地域福祉 今までとこれから~

※こちらの座談会は協議会設立20周年を記念し、2018年2月に行われたものです。

郡部 これより、藤沢障害法人協議会20 周年記念座談会を始めます。司会を担当します、社会福祉法人創の郡部です。よろしくお願いいたします。本日はお忙しいなかご出席いただきまして誠にありがとうございます。はじめに、自己紹介をしていただきまして、その後テーマに沿って、ご自由にご発言いただきたいと思っています。
本日の座談会のテーマは、「藤沢の地域福祉  今までとこれから」です。コーディネーターは光友会の本谷さんにお願いしています。よろしくお願いいたします。

本谷 社会福祉法人   光友会の本谷です。本日コーディネーターを努めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。それでは五十嵐代表より自己紹介をお願いします。

五十嵐 自己紹介ということですが、これは外の方にも読んでいただく記念誌の座談会の一部ということですので、改めて簡単に申し上げますけれども、わたくしは、五十嵐紀子と申します。

母体である社会福祉法人は、社会福祉法人光友会でございます。私たちの法人は今からちょうど 40 年前に立ち上げていまして、こちらの8法人協議会は20 年ですから、わたしたちは20 年たったところで、この協議会の結成に関わったことになります。母体の方の光友会の特徴を言いますと、盲学校の教師をしていました当事者でもあります五十嵐光雄、視覚障害者でありますが、それが、結局、学校は出たけれど、あと行くところがないというその当時はそういう時代でございましたから、その方たちがなんとか学校卒業したあと、働くところあるいは居場所、そういうものがなければということで作ったのが、当法人のルーツでございます。

最初は地域作業所を作る運動をし、その地域作業所の第1号をオープンさせていただいてニーズに合わせていろんなことをさせていただいている、というのが私たちの法人の特徴でもあります。

わたくしは、自分が立ち上げたものですから、まさに40 年、障害者福祉に関わってまいりました。その当時は福祉専門家というのはほとんどありませんでしたから、私もこの事業をやるにあたって、改めて福祉を専攻して大学の2年間とその後、また時が経ってから、大学院にも行って、社会保障法を勉強しております。以上です。

本谷 どうもありがとうございました。それでは齊藤さん、お願いします。

齊藤 マロニエ会の齊藤です。わたしは、昭和58 年の5月から、当時の手をつなぐ親の会の育成会の始めた任意の作業所ということで星の村共同作業所というところから、福祉の仕事は始まっています。その前は、2年くらいボランティアしてやっていたのですけれども、なかなかボランティアでは埒があかないなという感じがして、飛び込んでしまったということです。

今マロニエですけれど、光友会のあとに始まった育成会ですが、その後最高で作業所が4つと、ホームが一つという時代があり、途中で法人化をして、ちょうどみらい社が通所の授産ができるときに、作業所を2つまとめて、統廃合してみらい社にいくというかたちで、わたしも、みらい社にいく要員だったんですけれども、マロニエが当時3番目の作業所として藤沢で立ち上がってまして、そのときに法人化するにあたって育成会から人をひとりほしいという話でマロニエのほうに行って、法人の立ち上げから関わりました。平成3年10月からやって、平成4年4月の開業からもう26年目になります。

当時の伊澤理事長も福祉畑ではぜんぜんないので、諸先輩のご指導をいただきたいということで、五十嵐光雄理事長さんと育成会の両方にお声がけをさせていただいて、ちょっと教えてくださいということで三法人協議会の前身になったかなと。

もともとマロニエ会は、重度肢体不自由の作業所ということでやっていたのですけれども、ちょうど平成4年の春に鎌倉養護学校から卒業する方のなかに重心の方が5、6人まとめているというすごいピークの年がありまして、その方々の行き場がないということで、相談を受けたようです。そこでいろんなかたに相談をして、法人化枠をとって、そこの受け皿になろうというのがきっかけだった、という話を聞いております。

本谷 次に戸髙さんお願いします。

戸髙 藤沢ひまわりの戸髙と申します。わたしのところは、精神障害の方たちの関係の事業をやっております。もともとは法人の前は1978 年に藤沢ひまわり会という家族会ができて、1980 年前後に精神の全家連を通して、育成会の西條さんと関係ができたというところから始まってて、先ほどあった星の村にボランティアで顔だすようになったのが80 年の過ぎくらいで、ひまわりが精神の作業所として。1983 年にできて、わたしが翌年の84 年にひまわりの職員ということで入りました。

家族会ができて今年で40 年、法人になったのは2003 年で今年で15 年ですけれども、藤沢のなかでは家族会、保健所、藤沢病院と、どちらかというと精神のことではネットワークはかなりきっちりできているところから今があるかなと思っております。

本谷 それではつづきまして小林さんお願いします。

小林 小林です。藤沢育成会です。わたしは1982 年から星の村共同作業所にお世話になって、最初ボランティアみたいな形で入って、そのまま職員というかたちでした。藤沢育成会はその頃は星の村だけだったんですけれど、作業所が 4つできてグループホームが、当時は県の生活ホームと言っていた時代ですが、88 年に作業所4つとグループホーム1つ その段階で法人化して、湘南セシリアを作って、その法人化を含めて藤沢育成会ということです。藤沢育成会は今年30周年ですね。その星の村共同作業所が78年にできたんで、そこから数えると40 年ということで、わが人生を振り返って、長いことやってんだなって思うんですけれども、つい昨日のような感じです。

今現在は、私は法人のなかで特に地域貢献をやっていこうという流れが、社会福祉法人のありかたのなかで問われている部分もあるので藤沢育成会のなかでそういう地域貢献係、部署を作って、そちらのほうで働かせてもらっています。わたし自身の経歴としてはさきほど言ったように最初は作業所に行って、そのあと入所に行って、通所も、いわゆる当時の授産施設と更生施設からグループホームの担当もやったし、ヘルパーも担当、一通り全部法人内でぐるぐる部署を回らせてもらったので知的障害の部分については一通り経験しているというところですね。

本谷 はい。どうもありがとうございました。本谷は司会ですが、少し自己紹介します。光友会に入る前20 代で建築関連の会社から人相手の仕事をしたいということで自宅の近所に身体障害者療護施設「よこはまリバーサイドとつかホーム」ができたので、そこで介護担当ということで入りました。

非常に自分の体に合う職場だと思いました。福祉の勉強会が五十嵐宅で行われ、毎月2回月曜日の夜間の勉強会に職場の同僚が誘ってくれて、2人で参加しました。福祉のことを五十嵐光雄先生と、紀子先生から教わり、30 代をもう迎えてましたが、藤沢で新しくできる湘南希望の郷へ勤めたいということから、1985 年(昭和60 年)光友会に入りました。

湘南希望の郷施設長になる前、1999 年(平成11 年)地域担当で介護保険関連のヘルパー派遣事業、通所介護事業、訪問リハビリ、ケアマネ事業などを県に申請したり、光友会が地域福祉の拠点として、発信し推進していくということで現在に至っております。

続きまして、石渡先生に自己紹介と、20 年前の障害福祉がどういうものか含めながらお話しいただければと思います。

石渡 わたしは社会人になったのが1981 年の国際障害者年なのでもう38 年。ケアセンターの現場で10 年くらいやり、1991 年に教員になりました。

藤沢との出会いは多分、五十嵐光雄先生に研修会で会ってそれが藤沢に関わるきっかけだったんだと思うんですね。一番最初の出会いが、箱根の研修会で親しくお話しをさせていただいたことだったと思います。20 年前1998 年くらいですから、ちょっと前まで慶応大学の教授をやっていた浅野史郎さんが宮城県知事になって施設解体宣言を華々しく掲げて、「これからは施設から地域だよ」っていうのが流れになっていった時代かな。

その頃は予算の9割がたが入所施設で1割が在宅福祉みたいなやりかたをされていて、地域での暮らしっていうのは、家族が個人で頑張っていたという時代だったと思うんですね。でも藤沢は家族同士が繋がっていたというのが、育成会でもひまわりでもそうですし、光友会は、五十嵐光雄先生や紀子先生がいらっしゃったというところで、すごく当事者目線で繋がっていたなというふうに思います。

藤沢の障害研究なんかに関わらせていただいて、藤沢に来るととにかく当事者の方たちがパワフルで、そういう立場の方たちが法人を担っていたというのもあると思うんですけれど、それぞれの障害分野を代表するような光友会、マロニエ会、藤沢育成会が、障害種別の格差が大きいというふうに言われていた時代ですけれども、3法人は地域で生きていくんだというところで連携していって、すごく他の地域とは違う、藤沢の空気みたいなのを感じましたね。感じたっていうのは、当事者目線でいろんなことが動いていて、行政をうまく動かして、行政も障害分野に関わると、姿勢や目の色が変わるみたいに感じたことがありました。

今までいかにもお役人という雰囲気だった人が、「藤沢でいろんな人が暮らし続けるには」のような市民感覚みたいなところになって動いていく。そういう行政をうまく動かしていたっていうのがこの協議会としてあったのがすごく藤沢の色というのを感じていました。もう20 年以上になりますが、わたしも昨日のことのように思ったりするところがあります。

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